オスカー綾塚とキックボクシング‥その⑩
山口県山口市の徳心会KICKBOXING CLUB、代表&51歳現役キックボクサーのオスカー綾塚のブログです!

僕がグローブ空手の試合に出場するまでの軌跡を書いた記録です!!
格闘技はハートだ!!
ということでハートの髪型にした時の写真
さて‥‥2002年全日本グローブ空手選手権大会にて初戦をなんとか超絶ラッキーな勝利をおさめて勝ち上がったオスカー‥‥
この勝利で肩の荷がおりてリラックスできた僕は次の準決勝も判定で克つことができました!
そして迎えた決勝戦!!
対戦相手は千葉県の選手。
一進一退の攻防‥
本戦の2分間はドローに。
そして延長戦。
これもドロー。
そして迎えた再延長戦‥‥
白熱した戦い‥‥そして
試合終了の合図の太鼓の音が鳴る‥‥
主審が「では判定入ります‥‥判定!!!」
一人が僕を支持。
一人は千葉県の選手を支持。
そして残りのジャッジは‥‥‥
なんと引き分け!!
再延長戦は絶対にどちらかに白黒をつけて旗をあげないといけない決まりなのに
一人はドロー‥‥
絶対判定なのに一人はドロー‥‥
困った本部のアナウンスは
「再延長は絶対判定ですので‥‥では主審、判定をお願いします」
と最後は僕たちの試合をさばいた主審、レフリーに
運命を託されました!
そして‥主審は
「うーん‥青」
アナウンスは
‥‥
「よってこの試合、青コーナー綾塚選手の優勝になりました!」
というふうに
最後は
試合をさばいたレフリーによって僕の優勝が決まりました!
そしてこの時に僕と千葉県の選手の試合をさばいたのが
さかのぼること2年と3ヶ月前に、初日にマススパーリングをして
僕の肋骨を折った山口さんでした。
山口さんによりプロテストを断念し
K-Uに加盟を決意。
そしてプロデビューにこぎつけ初勝利。
親知らずの炎症で急遽、プロの試合をキャンセルし
高ぶっていた、闘争心をグローブ空手にエントリーし
ラッキーパンチで初戦を勝ち上がり
山口さんにより優勝を決めた‥‥
この一連の流れに
僕は
キックボクシングの神様の存在を
ものすごく強く感じました!
山口さんとマススパーリングをしたのは初日だけ。
そのあとの9日間は山口さんと会うこともなかった
当然に山口さんは僕が骨折したことも知りません。
一回しか会ってないので僕のことなど覚えてもいないでしょう。
2年と3ヶ月後、グローブ空手の決勝戦を戦った男が
あの時マススパーリングをした男など微塵も覚えてないでしょう。
もしあの時、山口さんに肋骨を折られず
僕はプロテストを、受けていたら
間違いなくウエルター級、67キロ級でプロテストを受けるハメになっていた。
そしてあの未熟な当時の僕なら、それ以上の怪我をした可能性が高い。
だけど幸いに山口さんのお陰でプロテスト断念できた。
そして、そこから毎日エアロバイクを1時間以上、こいでナチュラル体重が67キロ→61キロとかになったお陰で
プロテストもライト級で合格できた。
この全ての流れに
「見えざる何か」の采配を感じざるを得ません‥‥‥
26歳の時にタウンページを開いて見つけたジムの代表の肩書き‥‥‥
その時「カッコいいな‥‥」と憧れた
「グローブ空手、全日本選手権大会優勝」の肩書を手に入れることができたのです。
ちなみに僕がプロデビューしたのは
大阪の直心会の小池先生が立ち上げた
KAKUMEIキックボクシングという団体。
キックボクシング界に革命を起こす!という意味合いで作られた団体。
そして小池先生から東京の八王子のK-Uの代表の小林先生を紹介され、
今度は広島のスタジオKの、小島先生を紹介されます
小島先生には20年お世話になりました。
当会の選手もいったい何十人、出場させて頂いたか覚えてないくらい、スタジオKで行われた試合に選手を出場させていただきました。
この20年でおそらく100回はスタジオKに行ったでしょう。
しかしおもしろいな‥と思うのが
小池先生
小林先生
小島先生‥
みんな小の字がつくな〜と(笑)
僕は大阪の大会、
「KAKUMEIキックボクシング」で30歳でプロデビューしてそのあと
僕は38歳でプロのリングは一回やめます。
それからまた42歳でプロのリングに再デビューするんですが
再デビューは今度は大分のREVOLUTION、という大会。
REVOLUTIONは日本語で「革命」っていう意味ですよね。
デビューの地が 「大」阪で
再デビューの地が「大」分でした。
僕のキックボクシングの恩師は3人とも「小」の字のつく名前の先生。
次は「中」の字のつく人との御縁かな?(笑)
あ、大阪の直心会の小池先生の下の名前は小池孝典(たかのり)で
僕の名前は綾塚崇徳(たかのり)でしたね(笑)

山口市でキックボクシングをやっている徳心会KCの日常や代表のオスカーさんのつまらない投稿の数々です
この記事へのコメント